14歳の時に、自分の手で何かを作ることができるようになりたい、と思って以来…。
半世紀が経過していました。
こんなことをしていては手に技術がつかないと焦っていた16歳。
勝手にレタリングをしたり、鉛筆デッサンしてみたり、水彩画を描いたり、木を削ってみたり、油絵を描いてみたり、木炭で裸婦クロッキーしてみたり、石膏をこねてみたり、写真を撮ったり現像してみたり、・・・
自分は遠回りをしていることに気づきながら、それでもさまざまなことをしたかった二十歳前後。
ようやく地に足がついた25歳。
自分の気持ちを落ち着かせたのは、ジュエリー制作、でした。
神戸の貴金属ジュエリー制作工房でプラチナ指輪をサイズ直しする方法を1週間ほど教わり、あとは自分一人で日々手探りしながら試行錯誤の繰り返し。独学。
金やプラチナを熔かしたり叩いたりすることが楽しくて、周りに技術者がいないので誰も何も教えてはくれないけれど、来る日も来る日もヤスリや金鎚や糸ノコを握りしめ、気が付くと3年くらいで教わることが無いくらいかなりの技術が身についていました。
制作方法や工具のことを知らなくても、どのようなデザインのジュエリーを要求されても作ることが出来てしまうので、天才と言われた30歳頃。デザインも地金加工も宝石石留めも金属と石の研磨も地金熔解も鋳造もして、あの頃は周りのことが眼中になく自分の殻の中に入り込んで、新しいジュエリーを完成させるため制作手順と立体イメージを頭の中に繰り拡げひたすら意識の中で作ったり壊したりのシミュレーションを繰り返す毎日。
勤めをしていた頃はデザインと原型制作と大量生産品用の鋳造とに力を入れていて、工場長としてはズレた方向に仕事をしていたかも。梶光夫氏を姫路のホテルにお招きしてジュエリー展覧会を開くことがあったり、クリスマスの時期にフランスから帰国される高田賢三氏を工場にお迎えする約束をして見学をして頂きジュエリーの制作をすることになったり。
その後、オーダージュエリー創作を専門としてスタートした自分の工房は、受ける注文のほとんどすべてが過去に制作経験の無い新しいものばかり。試作なしのぶっつけ本番で要求されるレベル高い品を完成させなければならないけれど、不安は全くなかった。難しい仕事も今までほとんどお断りしたことはなくこなしてきた。
印象深いのは、純金インゴットでさまざまなアイテムの制作を頼まれたこと。自分の希望するものが作れる人を日本中探したら、新潟に一人兵庫県に一人居ることが分かった、と話され、近くのあなたに頼みに来た、と。お客様が秘書の方と工房に来られ、初対面で信用してくださったようでインゴットを何キロも預けてくださり、こんなものを作ってくれ。ゆっくり時間をかけて作ることはできなかったけれど、楽しかった。1キロ数百万円のインゴットを金鎚で何万回も叩き厚さ数ミリの板にして、ブルネイの方に振る舞うカレーのお皿を創ったり。音と振動が凄くてお隣や近所の方にご迷惑をお掛けしたはずなのに、ノークレームでしたのでそのことも感謝してもしきれません。
純金の四角い器もなかなか面白かった。預かった2キログラムのインゴットを1ミリの半分にも満たない薄い純金の板に準備して、色が違ってくると嫌なので純度の低い金ロウは使わずに、純金だけで5面の角のある器を作った。方法はほとんど記憶にないけれど、もう一度注文されることがあっても手が覚えているから大丈夫。もっときれいに仕上げます。
作り方も工具も不明のままで一人でよく仕事をこなしてきたものだと思いますが、それが不思議なことに初めての品を制作する依頼を受けた時に、自分にそれを作ることが可能か不可能かがその場で分かりました。出来る、と頭の中のどこかがささやけば、未経験の仕事もこなすことができました。
未知の方法や工具や技術は、自然に目の前に現れ、どこか上から降りてきて頭に浮かび、手や指が勝手に動きます。
1990年頃から手加工で創り始めた純チタンマリッジリング。ある会社の社長からこれで指輪を創るといいよと渡された金属がチタニウムでした。
初めの10年は神戸や明石や姫路の方から注文を頂いて兵庫県の播磨地方でのみ知られていた金鎚で叩き締めながら作るチタン指輪。
2000年にWebサイトを立ち上げ紹介を始めると、作り方の問い合せを頂いたり見学に来る方が居たり、たちまち人気が出て数年後には日本にも外国にも機械加工でリングを作るメーカーが現れて、あっという間に世界に認知されるようになりました。
この時期は爆発的に受注量が増え一日に15時間位働いて一年に360日位仕事をしていました。
時間の感覚がなくなって、完成したデザイン画を午前2時でも3時でも失礼なことに就寝中のお客様の自宅にファクシミリで何度も送ったり、疲れた手と頭と身体の休憩に新聞配達のバイクだけが走る真っ暗な夜を一人でドライブしたり。5年間位か10年近くかは確かめるすべもありませんが、とてもとても嬉しかったですけれど、あんなに休みなく働き続けることはもう無理かもしれません。
制作することしか意識になく、毎日のどの瞬間も次に創るジュエリーの加工シミュレーションを頭の中で繰り返しながら過ごしました。それらの間に多くの方々に色々なご迷惑をおかけしているはずで、非常に申し訳なく思っております。
姫路市周辺からの依頼品制作と近畿圏の百貨店からの依頼品の制作とインターネットで日本全国からご依頼頂くオリジナルチタンマリッジリングの制作と、…。睡眠時間3〜4時間で毎日を過ごし、今でもその習慣なのか深夜に起きだしてパソコンやスマートフォンを眺めているので、家人に早く寝なさいと注意されます。
あぁなんだかいい日々を過ごしたな。
十代の頃に夢想していたことが実現していたことに気がついて、ここまでは満足するべき人生と思います。自分の手で立体の人物も作れるようになった、金属で抽象的なアイテムも思うように作れる、非常に硬いものも加工できるようになった。自分の手に技術が溜まり続けたのは確かで、初期の想いは成就していました。
10歳の頃に近くの山から金鎚一本で掘り出した黄銅鉱や黄鉄鉱は、今でも宝物でずっと持ち続けています。長い釘を叩いて作った鉄のナイフはどこかへ行ってしまったけれど。
16歳前後の頃に同級生だけで入ろうとしたデパートの大宝飾展。招待券が無いからと門前払いをくらってとてもがっかりして帰ったことも笑える思い出です。
スマートフォンが出てきてからはパソコンで何かをする時期以上に環境が変化し、独学の困難さも一掃される状況になりました。
ネットに質問すれば誰かがなんらかの答えをくれるお手軽な時代に変わり、不明な地域も事柄も品も製造方法も画像や動画や文字で判明します。突然今までよりも100倍も1000倍も楽な時代に移行しました。
中レベルと低レベルの範囲が広がり、高レベルな世界は様々なハイテク機械が可能性を拡げます。人の手の技術に依らなくてもCADデータがあれば3DプリンターやNC工作機械が難しいところをこなしてくれます。そしてAIは人をも凌駕します。
…発展発達の先には何があるのでしょうね。